承☆認☆欲☆求!!!

タイトルはちょっと検索に掛からないように小細工しました。ふざけ過ぎですかねw

少人数でのSNSやメッセでの繋がりですら億劫になり逃げ出したくなる身としては、なんともめんどくさいことだなぁと思わずに居られません。

自分個人の立ち位置を確定しなければ生きていけない、というスタンスは何時ぐらいからあるんですかね?

人間、他人との間には齟齬が生まれないなんて事は有り得ません。世界を認識する脳が別なんですから。じゃあ、脳が一つで体が別なら良いのかと言うとそんなこともなく、受容器官である肉体が違えばやはり齟齬は起きるでしょう。一つになればいいのか?空間的な位置が違えばやはり変わるでしょう。手が痛いからといって足も同じように痛くなりはしません。

では、自分自身で承認するのか?いいえ、人間の意識なんてものは所詮脳が無意識に取捨選択をしている情報の中にぽっかり浮かんでいるだけで、思いの外胡乱なモノです。脳内においては何でも有りですし。時間の遡行すら可能で、場合によっては無意識に改竄・補填される、真理とは程遠いものです。

自分の立ち位置など求めても求めても「そんなものは無い」という結果しか齎さないではないですか。


<社会における>とか<ネットにおける>とか<恋愛関係における>とか<自分自身で認める>とか、限定条件内での<自分>を幾つも幾つも確立させればそれでいいでしょう。

<社会>ではダメだったけど<恋愛>なら確立できてます、とかそんなんでいいんです。


この承☆認☆欲☆求!!!のエントリが増えてるのはきっと秋葉原のあの事件の犯人の供述ありきなのだと思いますが、あの犯人は(自分で言うには)「ネットでは承認されたけど社会では承認されなかった」でしょう?

そんなことはその限定内容によって、そこここに起きてる事で、それが<自分>を揺るがす大惨事だと思い込んだのが大間違いです。<自分>なんてものはそもそもそんなに確りしたものでは無いんですよ。そもそもね。


人間はあやふやで、そしてそれでも充分生きていけるモノ、ですよ。




まぁそもそもその<動機>なんてものも、犯人自身の真実とは限らないんですが。無意識に犯人自身が後付することもあれば、<本当の>動機が自分でも理解不能だったために、自分で理解出来る理由を取って付けた、ということだって有り得ます。例えば「ただ人を殺してみたいだけの人でなし」であったとしても、自分でそれが納得出来なければ、自分の脳はそれを拒否し、違う<動機>を作り出すでしょう。

<動機>だろうが<承認>だろうが、そんなものはまやかしに過ぎません。求めて大騒ぎするほどのものじゃないです。