まずはRPG(Role Playing Game)におけるRoleというものの違いによって現れるゲーム性の違いの認識から入ろうと思う。
 これがわかっておらず、議論が混迷しているのをよく見かけるからだ。『FFは自由度が低い・ただの紙芝居だ』とはよく言われるが、これは当然である。「そういうデザイン」なんだから。
 『DQに比べて…』と言った前頭詞が付くこともあるが、実はDQも一緒である。ただアドリブの余裕がFFより少し広めに取ってあるだけだ。脚本の隙間が大きいともいえる。
 そのあたりのことを少し解説しておく。


 Roleにおいて<自分がどのRoleをやるか選ぶ>のなら、主人公のドラマは必要なく、一人称視点であるほうが良いのだろう。wizとかみたいに。プレイヤー=操作キャラクターRoleなのだろうから。
 この場合問題となるのは、五感の共有までは現状のゲームではできないのだから、どうしたって視界にしろ痛覚にしろ嘘が混じる。後ろから肩を叩かれてもテキストが無ければわからないし、回復ポーションの味がクソ不味いという設定でも、何のためらいもなく飲み干せる。

 またこの場合世界はどうしても箱庭的になる。
操作キャラクターとプレイヤーを近づけようとすればするほど、リアリティを求めなければならなくなり、世界は緻密になり、NPCは出てこなくなる。
 例えば、街の片隅にあるゴミ箱のフタを開けると、そこには毎日違ったゴミが入っていなければならない。それはランダムに変わるだけじゃ駄目である。そのゴミを出す生活をしてるNPCの生活すら考えなければリアルではないからだ。
 そのNPCにも人間関係があり、そのNPCを取り巻く環境があり、そのNPCを形作る思想背景、世界背景、物理法則、etc…と考えていかなくてはならなくなる。ただ、それはもはや地球シミュレーターをも越えてもう一つの「世界」になってしまうだろう。
 鍵のかかった宝箱を目の前にして、『その鍵を持っていないがバールで抉じ開けて今中身を取ろう』とプレイヤーが思ったらそうできなければならない。開くかどうかは兎も角、挑戦はできるべきである。
 そうやって初めて、ゲーム世界のキャラクターと、現実世界のプレイヤーが一体化に向かうのである。
 なのでできるだけ狭い範囲の舞台であればあるほど、主人公とプレイヤーの一体化が図りやすい。準備するものが少なくて済むからだ。



 次に近作のFFなどに見られる<製作者がプレイヤーがどのRoleをやるかを割り振る>タイプのものなら、主人公はドラマを持ち、ドラマを展開しなければならない。
<主人公という「役」を演じる>ことこそプレイヤーに与えられたRoleなのだから。
プレイヤー=(そのゲーム・物語の)主人公Roleである。
だから、三人称視点が望ましいし、また、紙芝居だの、ゲームである必要があるのかだの言われるのだ。

 この場合、世界はある程度広くできる。プレイヤーが行きたいトコロ=主人公が行きたいトコロ、でなくてもよいのだから。
 行動範囲やNPCの言動が全て製作者という演出家に掌握されており、プレイヤーはあくまで主人公を演じているのである。そこには役者(プレイヤー)の自由はあくまでアドリブの範囲でしかなく、本筋を離れていてはドラマは終わらない。
 だからゴミ箱を開けていつも同じものが入っていても問題は無い。ただの舞台装置なのだから。鍵のかかった宝箱は鍵を入手するまで開けられない。そういう脚本なんだから。
 よって窮屈に感じる。自由度が低いと言われる。


 また、これはCRPGの辿ってきた歴史からも伺える。まずはTRPGのようなアドリブのいくらでも効く自由度を理想とし、ハードの限界などから箱庭へ。その後、ハードの進化に伴い、世界が広げられるようになり、舞台やドラマに似たものになっていく。
要は<理想乃至究極のRPG>とは概念としてすでにあるのだ。それを様々な要因で縛られ、削ったものが今あるCRPGである。
 だから一人称視点であろうがなかろうが、プレイヤーの操作がダイレクトに操作キャラクターに還元されるARPGはプレイヤーと操作キャラの一体化の手段として優秀であろうし、戦闘などにアクション要素を取り入れたり、リアルタイムバトルを歌ったRPGが増えて行くのは必然といえる。

 またNPC全てに人生は用意出来なくとも、擬似世界に大人数のプレイヤーが存在し、それぞれのプレイヤーがそれぞれの時間をそこで過ごすMMOはRPG世界の構築手段として優秀である。
 自分以外のゲームで動いているキャラクターはそれぞれにその人生を生きているのだから。

 マルチメディア展開も、世界を広げて見せるための手段の一つであろう。ゲーム内で語れなかったこと、描ききれなかった世界を漫画や小説、アニメで語ればいいのだから。(個人的にはキライである。それはもはやゲームではないと思うのだ。)

 さあ自由度の話に移ろう。
所謂<理想のRPG>が実現したとする。
 インターフェイスは自分の意思であり行動であり、ゲーム内で後ろを振り向きたければ、リアルで振り向けばいい。プレイヤーとキャラクターが完全に一体化しているのだ。ただしもちろん「ゲーム」であるから、攻撃されても痛くは無いし死ぬことも無い。別に完全に一体化したら云々と危険性を語るつもりなどない。リアルで非力な人でも、キャラクターは筋力が世界一あっても構わない。
 そして、そういう世界に放り出されて、『さあ自由に生きてください。シナリオはあり倒すべき敵も居ますが、あなたには何の係わりも無いことです。あなたのキャラクターには何の物語もありません。時間もリアルのあなたが生きている限りずっと続いています。NPCはあなたと同じように時間を生きています。シナリオはNPCたちにも影響するのです。NPCたちが勝手に自分達で考え、敵を倒してしまうこともあるかもしれません。製作者は完全なRPG世界を作り上げました。後はプレイヤーであるあなた次第です。しかしこの世界にも習慣や法はあり、それを破ればあなたはNPC達に罰せられるでしょう。何気に声を掛けても、誰も世界構造なんて語りだしたりはしません。なんというリアリティ!それではこのリアリティ溢れるRPG世界を自由に生きて下さい。』
 
と言われて始まるゲーム。

 私はやりたくない。
NPCの誰かがどこで何をしているかわからないのである。情報を集め、敵の正体を知っているNPCの存在を探り当ててもその人がいつどこを移動しているかなんてそのNPCの気分で変わるのである。探り当てても重要な情報を得るために、まずその人の信頼を勝ち取らなければならない。
 それはもはやゲームではないだろうと思うのだ。本当にそのRPG世界に生きなければならなくなるのだから。極端ではあるが、自由度が高い、とはそういうことなのだ。

 そこで壁が生まれる。そのゲーム世界の操作キャラクターとプレイヤーを一体化させようとしても、ゲームである以上、なんらかの形での制限は常に存在する。技術的なことを抜きにしても。だから自由も自ずから制限される。
 そしてその制限――もっと言えばルール――の中でいかに楽しめるか、こそがゲームであると思うのだ。


 例えば子供の頃、学校の帰り道などで『白線から出たらアウト』とルールを作り、白線だけを踏んでなんとか家まで帰ろうと遊んだことはないだろうか?<通学路>という枠内で。(この世界全ての白線、でそういう遊びはしなかった。少なくとも私と友人達は。)
 ここでいう<通学路>のようにゲームとしての枠組みは押さえた上で、そういう風に各個人で遊び方を模索できる懐があるかどうか、が私個人にとっては、いいと思えるRPG、いやもっと広くゲーム、であるかかどうかなのだ。
 それこそが所謂<ゲームにおける自由度>ではないかと思う。

                                                                                                                                                  • -


○追記

 結局言いたいのは、レビューサイトなどで目にする「自由度が低い」というような評価は大概、的を外してるように思える、ということ。自由の行き着く先は、製作者による放置、であるのに。行き先が少ないなどは、大抵クリアへの親切心からである。モンスターが低レベルから順に出てくることもそうだし。

 また、ARPGの大好きな私からすれば、プレイヤーの操作次第で高レベルのモンスターも倒せるバランスなどが取られていたら狂気乱舞するが、その場合プレイヤーを選び、間口の狭いものとなるだろう。
 (ちなみに、私は決してアクションが得意という訳ではない。単に自分の上達がゲームに直結するのが嬉しいという人種なだけである。)

 それはゲーム業界として如何なものかとも思う。だからこそ、制限は設けられるし、プレイヤーの腕次第、といったスタイルは主流とはならないだろう。「誰でも時間さえかければクリアできる」のがCRPGの魅力でもあるのだから。
 だから今増えている「リアルタイムバトル/アクション方式」のゲームもどこかで頭打ちが来るだろうと思う。アーケードで対戦格闘というジャンルに頭打ちが来た様に。



 どうにも、プレイヤー側が希望ばかりで、与えられることに慣れすぎている気がする。
自由を与えられるより、見つけ出す努力も必要なのではないだろうか。
楽しいもんですよ。自分ルールで規定のゲームを遊ぶのも。