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RPGには「嘘」がたくさんある。
それはハードの問題、ソフト開発の費用等から、仕方のないことであり、また、必要なことでもある。
「プレイヤーの分身を送り込めるもう一つの世界」は理想の一つではあるだろうが、それはもはやゲームを超えて、我々とは別のもうひとつの「世界」である。
もし我々の世界に神(もしくはそれに類するモノ)が現れ、『この世界は私が作ったゲームの世界だ。そろそろ電源を切ろうと思う。』などと言われることを想像してみて欲しい。
使い古された世界観ではあるが、もし「世界」を作り上げたなら、それがデジタル信号の羅列であれ、そこに居るのはNPCではなく「人間」であろう。
我々が遺伝子という設計図に基づく、電気信号で動く有機物の塊であるように。
だからゲームはゲームとしてどこかで止まらなければならない。が、あくまで擬似的に、<RPG世界>をリアルに近づけることはRPGにおいて正当な方向であろう。そういう意味でNPCの個性化はあってしかるべきだと思う。
CRPGにおいて、パーティが組めるようになると、プレイヤーの操作キャラクター=パーティとなった。これは現在でも主流となっているシステムと思う。
それはAIなどというものがない時代に、「仲間と共に旅をする」というシステムを導入したために起こったことなのだろうとは思う。だがそれはやはり「嘘」だ。
プレイヤー=操作キャラ=主人公と謳っておきながら、NPCの行動まで完全に掌握できるというのはリアリティから離れる行為だ。ただ、ゲームとしてはその方がやり易いのは確かである。
だからドラクエは『さくせん』で『命令させろ』と「AIの自由行動」をプレイヤーに選ばせる方法が取られているし、FFでは、操作キャラクター=パーティの正当化をも意図して(もちろんそれだけではなくストーリーのため、がメインではあろうが)各パーティキャラそれぞれがドラマを持っている。
ただ最近では、ハードの進化もあって、プレイヤー=操作キャラクター=主人公で、NPCはそれぞれに行動し、生活し、戦闘時は自分で行動する、という方法が増えてきているように思う。リアルタイムでアクション要素のあるRPGがもてはやされるのは、RPG世界のリアリティ追求に向いているからなのだ。
少し話が逸れてるように見えるかもしれないが、俗に『スキルシステム』と呼ばれるものがある。
元々はTRPGで『同じ職業でも画一的にならない。自分のキャラに個性を出す。』といった使われ方のものだったが、これがCRPGに導入されると、それは逆に無個性化への道を辿った。
パーティーキャラ全員がすべてのスキルを同じように覚えられるからだ。顕著な例で言えば、DQ5とDQ6のモンスターの扱いの違いである。DQ5では、モンスター毎の特徴があり、強さや見た目においてそれこそ千差万別であったが、これがDQ6になると、モンスターも人間キャラと同じように、全てのスキルや呪文を覚えられるようになってしまった。
スキルというのは個性の演出にこそ使うべきなのだ。誰を使っても何でもできる、というのは極端な話、プレイヤーキャラクターの数を増やしているだけにすぎない。
万能なのは主人公一人で構わないと思う。それぞれ個性や特色を持ったNPCが自分達の意思で動く。その不自由さにこそリアリティが生まれるのだと思うがどうだろうか。
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個人的には、主人公も万能でない方が好きだ。自分の不足を補ってくれる存在としてNPCがいてくれるほうがいい。ただその場合、仲間候補が何人(何種類)いても、仲間に求めるものが決まってくるであろうから、パーティーの多様性は損なわれる可能性もある。
その辺のバランスが取れるからこそクリエイター(≒職人)だとも思うけれど。