いやもう何を今更って感じではあるんだけど、届いた漫画3冊をたった今読み終えて、吐き出さずには居られない。


 一言で言うと、宮崎駿なんかを有り難がるなら、藤田読もうぜ藤田、って感じ。
 特にエヴァや世界系の先に行こうとしてる人らは藤田から学べばいいんじゃないかなぁと思わずに居られない。たとえそれが小説家さんであってもね。


 その辺も踏まえながら、今回読んだ3冊を作品ごとにちょっと見てみる。



○夜の歌(短編集)

・からくりの君(初出:1994年)
 OVAにもなってて、実はそっちを先に見てるんだけど、確かまだニコニコにもあったんじゃないかなぁ。すごく原作に忠実なんだけど、クオリティは実はOVAの方が現在の藤田っぽい不思議。


 すごく藤田的なヒロインが出てくるんだけど、こういうキャラ造詣がすごくいいなぁと思う訳ですよ。
 で、宮崎駿はこういうのを書けない。
 宮崎アニメの主人公ってみんななんかこう、善性の塊でしょ?子供は無垢で純粋だ、と信じてるというか。


 でも子供ってね、3歳児ぐらいでも嘘というか、誤魔化したりしようとする訳ですよ。怒られそうになったりすると。純真無垢だなんて幻想でしかなくて、それを恥ずかしげも無くドンと出してくる宮崎駿は私はあまり好きじゃない。


 この作品のヒロインみたいな歪んだ部分てのはみんな持ってて―という言い方はまだ温くて、持ってて当然・持ってないとおかしい、んですよ。本来。人ってのはね。


 で、それを<トラウマ>とか<難病>とか、わざわざ<歪んだ部分を持っていること>に理由を付けて、ドラマを組み立てたのがエヴァ系や世界系(のある一部分)な訳で。


 ちなみにエヴァ放映は1995年。
 藤田はその前年にはすでにこの作品を描いてるんですよね。そしてもう、抱えたトラウマ(っていうとどうにも嘘くさい匂いが混じるようになったなぁ。本当にトラウマを抱えてるような人には住み辛い世の中なのかもしれない)からの脱却も描いてる。


 さらにちなみにこの時宮崎駿は1993年紅の豚、1994年平成狸合戦ぽんぽこ、1995年耳をすませば


 エヴァのもう一面、<引き篭もらずにどう生きるか>は別の作品で描いてるので後述ー。



・掌の歌(初出:1994年)
・連絡船奇譚(1988年)
・メリーゴーランドへ!(1988年)
・アキちゃんと森で(1989年)
 思想的なモノ―というと身構えられるだろうから、藤田節とでもいうモノ―がそんなに色濃くは出てない短編。
 普通に面白いけれど。

 『メリーゴーランドへ!』ではすでに藤田ヒロインの原形が見えるけれど。



・夜に散歩しないかね<前・後編>(1993年)
 藤田が読み手を選ぶ理由の一つに、この作品のようなエログロとバイオレンス描写があるんだと思う。
 でも、それらは元々、陰惨で醜悪なんだって思って、是非見て欲しいんだよなぁ、藤田作品。
 それだけで食わず嫌いで居るのはもったいないと思う。


 これも『からくりの君』で触れたような、人は「(作中で言うところの)闇」を当然持っていて、そしてそれをどうするか、にまで話が及んでる。
 今はもう散々使われたテーマだけれど、1993年にですよ?
 つい最近まで引きずられたエヴァセカイ系→日常は戦場→日常の豊かさを見直そう(この流れが気になる人はサブカル関係の本やサイトを調べてください)の流れはもう1993年に藤田はあっさり越えてるようにみえるんですね。


 藤田世界では平和な日常は最初から豊かで、でも裏では黒いコトや黒いココロはあるんだけれど、それが表出したときはそれを人との関係や戦いによって乗り越えて、日常に回帰すれば、黒いコトや黒いココロは無くならないまでも日常の豊かさの前にナリを潜める、ってのが一貫して描かれている。



 もうほんとエヴァからの十年なんて、なにそれ?に見えませんか。





 長くなったので一旦切りますー。



 と思ったけど再開。


○暁の歌(短編集)

・瞬撃の虚空<前・後編>(1996年)
・空に羽が…(1997年)
・ゲメル宇宙武器店<前・後編>(2000年)
・美食王の到着(2003年)
・帯刀石仏(デビュー前未発表作)


邪眼は月輪に飛ぶ(2007年)



 ちょっと纏めて。

 『瞬撃』と『ゲメル』あたりで上記に挙げた<引き篭もらずにどう生きるか>について言及されている。いや、もっと進んで<退屈な日常をどう豊かにするか>か。


 さらにすごいなぁと思うのは、老人すら、まだ<先>へ進ませようとする点。


 <今は普通の年寄りだけど、実は昔すごかった(そして今も本当はすごい)>キャラってのは、結構色んな作品に出てくると思うんだけど、大抵それは<間違えない・正しい・(主人公らを)導く存在>という、作品において絶対的に正しい存在として描かれる事が多い。もしくは歪んで頑固になった敵対者。どっちも<それ以上曲がらない>。


 例をまた宮崎駿から持ってくると『ナウシカ』のユパだとか、『ラピュタ』の親方・ドーラなんかはevilにならない。というかevilを持っていない。
(参考:というかコチラのサイト様には多大な思索を頂いています。多謝。http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20070408


 ところがこの『瞬撃』のおじいちゃんはまだ変わろうとする訳ですよ。立ち止まらない。自分に言い訳して停滞することをヨシとしない。


 こんなキャラ、誰が作れるんだと思う訳ですよ。


 藤田ヒロインも散々言ったように、ちゃんと「闇」を抱えてて、『美食王』のヒロインの、復讐を成し遂げる直前の恍惚とした表情なんかは鳥肌モノです。<狂気>です。

 <敵討ち>だとか<正義>とかなんかそういうキレイっぽいもので誤魔化さない。
 明らかに<狂気>に届いてしまってて、そしてそれを作品内でちゃんと解決する。


 本当に、本当にすごい作家さんだと思います。
 読んだことのない方は是非。