感情から見るトリアージ私論

飽くまで私論ですよ、と逃げを打っておいて。


まずは、医療トリアージの正確な定義。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8


現場で実際に決断している訳ではない私が偉そうに言えることではないんですが、現実に今そんな状況はきっと起きているでしょう。トリアージの是非を問うまでも無く、トリアージが導入されていようとされてなかろうと、現場の人間が覚悟して決断しなければならない状況がきっと在る/在ったでしょう。そこでは当事者では無い我々のようには、それを議論するような時間はありません。覚悟を決めるような時間すらも無いんじゃないでしょうか。


そして、だからこそ、<トリアージ導入>という<システム>が活きて来るのではないかと思います。感情では決められないからこそシステムに沿った行動を取る。現場の一個人の判断/決断/覚悟に委ねない。現場の人間の罪悪感の軽減。法律などと同じですね。裁判官個人が感情で死刑宣告なんてきっと出来ないでしょう。法律に沿って量刑するからこそやっていけてる。


トリアージというシステムが無かった場合、見捨てられた側の人間の恨みは個人に向かってしまうと思いませんか?見捨てた側の人間は自分の決断を一生背負わされてしまいませんか?


もちろん倫理的議論や選り良い方法の模索は続けるべきです。トリアージを最適解として思考停止してしまうのは良くない。ですが感情を語るのなら見捨てられる側だけでなく見捨てる側の感情も含めるべきですし、そのフォローとしての思考停止は有りなんじゃないでしょうか。


「考えなきゃダメだけど、考えていては(その瞬間は)やっていけない」という場合も、感情の動きもあるんじゃないかなぁと。


危険にも他人の命の取捨選択にも、晒されていない私の戯言でしか無いんですが。