CLANNADとドッキリ番組と脳内彼女

今日ロンドンハーツで狩野英孝がドッキリされる番組を観てたんですが、CLANNADの泣きの部分とドッキリって手法が同じだなぁと。


まずは地味に積み上げる訳ですよ。豊かな楽しい未来溢れる日常を。
で、それが一番高まったところでオトす。
オトす前を丁寧に丁寧に積み上げるほどその落差を大きく感じられて、視聴者側の感情の落差も大きい。


CLANNADは微笑ましくてニヤニヤ。ドッキリは小馬鹿にしつつニヤニヤ。
だからオチで大泣き。大笑い。


クラナドは一応物語ですから、今は朋也の<幸せ>っていうものが「渚が居て〜」「渚と〜」「渚を〜」と渚に拘りすぎるように描かれていて、<秋生や早苗、同級生達と一緒にいる幸せ>は現状認知されていない。
<大事な人>に渚以外が含まれていない。


そもそも学生の時から他人に構うけど構われてはいないんですよね朋也クン。
父親のことなんて、渚が構ってくれようとしても拒否しますし。


なので<我が子が居る幸せ>も認知せずに〜→立ち直り、というプロットがここから展開するんですが、そういう主人公の偏ったコミュニケーションを明らかにし是正する物語に果たして渚の死などという、ドッキリと同じようなコケオドシで大袈裟なギミックは必要なのかと。


どーにも記号的というか安易すぎというかゴニョゴニョ。
渚かわいいですけどね。


ドーブツ的に「カワイイなぁ」とは観れるけど、物語的に「やすいなぁぬるいなぁ」としか。
勿論個人的にであって「CLANNADは人生」と思える人を非難するつもりはないので悪しからず。




てなことを考えつつ、話が飛ぶんだけど、
http://d.hatena.ne.jp/nuryouguda/様を最近読み漁ってて、「あぁうらやましいなぁ」「いいなぁ」と。


そこは某所では有名な脳内妹サイト様で、あぁ別に自分も脳内彼女が欲しいって訳ではないんだけど、そういうガス抜き…って言ったら失礼かな、なんていうか、精神の安定?感情のコントロール?うーん、上手く言えないけど、そういうのがスゴイ健全で素敵。


世の中には童貞こじらせたり自意識こじらせたりしたせい(?)(ほんとにその『せい』かはわかんないけど)で犯罪に走っちゃったり、そこまで行かなくても2chやニコニコで暴れたり、他にも場合によっては自傷や自殺まで自分を追い詰めるしかなかったりする人達が居たりする訳だけど、そういうことの療法とか安全弁とかストッパーとして、自分自身で自己解決できるっていうのは凄い。


人によってはそれが通院だったり投薬だったり他人とのふれあい(ここでCLANNADな!)だったり何かの書籍だったり酒を飲むことだったりカラオケだったりスポーツだったりするわけだけど、そのヴァリエーションの一つとして『脳内彼女』ってものがあって、ココで気になったことや言いたいことを文章にして垂れ流すぐらいしかそういう機能?をもって無いボクとしては「いいなぁうらやましいなぁ」と。


朋也クンもそういうのを自分で見つければいいと思います。
そういうことが出来ないとゲーテのウェルテルになったりするしかないわけで。



うまく纏まってないけど奇跡的にクラナドに着地したから終わる。