このゲームに関しては信者と言われても反論出来ないほどに大好きだ。所謂<ゲーム>としては各所で言われてるような不満点もあるのかも知れないが、私はその辺り全く気にならなかった。

 あの世界にどっぷり嵌まり込み、城からの脱出を最終目的としつつも、脱出することなしにヨルダの手をずっとあの静謐で美しい場所で牽いていたい気分にもさせられる。

 …ヨルダがそれを望んでいるかどうかに迷いながらも。



 <城>の主交代システム、静謐さとその美、閉じられた永遠の世界。そう。所謂<永遠>というヤツである。

 永遠に留まること、変わらずに居ること、には言い難い魅力がある。否定する人も居るだろうが、永遠が本当には望めないと知っているからこそ、不変のモノ――美しい絵画だとか、自然のままの自然、そして時には変わらない愛、など――を求める人も確かにいるのだ。

 そも、人という種は<連続し続ける変化>には精神がついていけないらしい。そのために元旦などの所謂<節目>を必要とするのだそうだ。本当は何も変わらない連続したただ流れるだけの時間に、『去年はこうだったから今年こそはこうしよう。』と言った<(同じ時間では無いが)同じように繰り返される一定の期間>と言った擬似的な永遠性を取り入れることで精神の安定を図る。もっと言えば1分1秒といった区切りすらも、時間という概念が便利だから、といった理由だけでなく、<区切り>の必要性に駆られて出来たのかも知れない。
 人は永遠など無いと知ってはいるが、それでも永遠(もしくはそれに似たもの)を欲しがるのだ。
 ゲームが好きな方なら、私がICOで感じたような『この世界からまだ離れたくない。できることならずっとこのまま…』と言った感情を持った方も居られるのではないだろうか。

 さてヨルダに話を戻す。
 私はやはりヨルダは出たかったのだと思う。変化の無い永遠に閉じられた世界から。

 初めてイコとヨルダが出会った時、カゴから出てきたのはヨルダ自身だ。決してイコに強要された訳ではない。強制的に扉は開けられたが。

 城の中の永遠という枠の外から入り込んだ異物に対して、変化を恐れるなら自ら近づく必要は無い。恐れ、開いた扉を閉めなおし、カゴの中に再び閉じこもってもいいのである。永遠性を守りたいのなら異物を排除しようとするかも知れない。クイーンがそうしたように。
 だがヨルダは自らカゴを出て、異物たるイコに言葉を掛ける。さらには差し出された手をも握るのである。

 ただそれは嬉々として永遠からの脱出を希望した訳でもないのだろう。ヨルダもやはり<永遠>にまだ魅かれてる部分もあれば、<変化>を恐れてもいるのだろうと思う。だから、足取りは決して軽やかではないし、イコに先行して脱出を目指すことも無い。
 (や、実は先に部屋に飛び込むシーンもあるにはある。あのシーンの解釈は難しいといえば難しいが、脱出に必要な門を開く装置のある部屋に飛び込むという行為はヨルダの『外に出たい』という意思の発露に見える。個人的にはヨルダが見せる数少ない「脱出という行為の肯定」に見えるのだがいかがだろうか。)

 そう思って見ると、手を繋いだままヨルダを引っ張り回して、性急に城から脱出を図るという行為は、葛藤に足掻いてる人間を急き立ててるようで、ついついヨルダのペースで歩いてしまうし、飛び越えなければならない隙間で怖がって立ち往生しているヨルダが『こんな怖い思いをして<変化>に身を投じるなら、<永遠>に留まって居たい』と思いはしないかと不安になる。
 ゲームだからそんなことはないのだが、『大丈夫。おいで。』と声を掛けたくなる。

 また、敵として出てくる影は、ヨルダの『「永遠」に留まりたい』という気持ちを表したものだと思う。だからこそヨルダが影に引きずりこまれた時に、何の因果関係もない筈のイコまでもが石化してしまうのだ。
 <永遠>というシステムを構築する<城>において異物たるイコが動き回っていたり、永遠性を破ってしまっては困るから。
 ヨルダが<永遠>に囚われれば(影に引きずりこまれるのも永遠を自ら望むのも『囚われる』ことに変わりは無い)、イコも<永遠>というシステムに組み込まれるしかない。
 (もしこれが『城から放り出す』と言った方法なんかだとまずい。オープニングで語られた通り、城の外から入ってくる手段はあるのだから。)

 逆に、イコとヨルダが永遠性を保とうとするシステムの中で自由に動き回れるのは、システムの主要な部分たるヨルダが<永遠>に留まりたくないからだ、という見方もできる。
 この場合システム保持の役割として影がヨルダを連れ戻そうとしている、と受け取れるかもしれない。

 何より、プレイヤー自身が「永遠を望む気持ち」を知っているのだ。少なくとも私はそうだ。 だからプレイヤーにも葛藤が生まれる。『ヨルダを本当に城から連れ出していいんだろうか』と。
 そしてそれは最後まで付いて回る。クイーンの台詞もいちいちソコを付いてくる。その後クイーンを倒すわけだがコレもよくよく考えると、必然性は無いのである。単に石化したヨルダを助けるためだ、という解釈もできるだろうが、物語中で石化を解くにはクイーンを倒さなければならないと明言されることは無いし、何よりヨルダ自身が永遠に留まることを望んだのだとしたら、大きなお世話ではないか。
 さらに追い討ちをかけるように、崩壊する城に自ら留まるヨルダ。(最終的には留まったわけではないが)

 ヨルダが崩れる城から舟に乗せてイコを逃がしてくれるのだが、その間プレイヤーはずっと考える。
 『私がしてきたことはなんだったのか。無駄?大きなお世話?エゴの押し付け?』

 そうして辿り着いた海岸で、今まで感情をほとんど見せなかったヨルダが最後の最後に微笑んでくれて、プレイヤーを肯定してくれるのだ。単に『あぁやっぱりヨルダも出たかったんだ』という現在から遡って過去を造るような真似は出来ないが、少なくとも最後にヨルダは怒りや悲しみではなく、微笑みをくれるのだ。

 ゲームとしての出来、映像や音楽、エンディングの解釈やストーリーの構造論、謎の解明などの考察は色々あるだろうし、それに興味もあるのだが、あの微笑みがあってこそ、私はこのICOというゲームが大好きなのだと思う。