FF12ゼノサーガ
 この二つのRPGを終えて最初に思ったことが、「コンピューターRPGとして対極にあるな」ということでした。まずはそれを個別に見ていき、最後にはCRPGの表現というものの話をしたいなと。


FF12のこと
 ストーリーや音楽、グラフィックは置いておいて、優れた戦闘システムが出てきたなぁと。

 以前私は『RPGにおける個性』で、パーティーメンバー全員に指図すること(全員の行動をコマンド入力すること)は<ゲームにおける嘘>だと言った。ゲームにおけるリアリティ≠実際のリアリティなのは『RPGにおける自由度』あたりでも触れているが、それにしても必要な嘘とは思わない。

 それが今回FF12では<ガンビット>というシステム

・プレイヤーはあくまで指示を出すだけ(作戦・指示を用意しておけば、かなり臨機応変に自動で戦える)
・それがいやな人は旧来のパーティーメンバー全員のコマンド入力でも戦える
・緊急時には自動戦闘中にでも、割り込んでコマンド入力を行える

によって、パーティーメンバーの行動をある程度掌握しながら<仲間に任せて>戦える。

 これはとても凄いシステムだと思う。自動/手動が強制ではなくプレイヤーによって選択できることも含めて。

 プレイした人ならわかると思うけれど、作戦・指示たるガンビットシステムは本当に優秀で、構築に慣れてしまえば、もうガンビット無しでプレイする方が辛い。
 また、フィールド上の敵シンボルと画面切り替え無しで(つまりはエンカウント後戦闘画面に入るのではなく)そのまま戦闘に入る、シームレスバトルも素晴らしい。

 この<ガンビット>と<シームレスバトル>は衝撃だった。
RPGにおける個性』で書いたとおり、私はコンピューターRPGがプレイヤーと主人公の一体化を目指すなら、アクションRPGの方向に向かうしか無いと思っていたのだが、FF12はアクション抜きでリアルタイムバトルを実現してしまった。
 アクションを挟まないRPGの戦闘システムにおいて、FF12はかなり完成されているのではないかと思う。

 ただ、やはりパーティーメンバーの(戦闘時の)無個性化は解消されていない。こんなことを望む私のような人間の方が少数なのかも知れないが。


ゼノサーガのこと
 私はゼノシリーズにおいて、所謂『強くてニューゲーム』は標準装備すべきだと思っていた。
単に、楽に<再プレイ>出来るようにではなく、<再読>のためにもう一度レベル上げ等を強いるべきではないと認識しているから。

 それがEP3で解消された。膨大なゲーム内データベースと、全編フルボイスで組まれたイベント部分プラスCGムービーの全てを閲覧できるという手法で。

 これは<再読>においてはとても正しい方向だと思う。つまりゲーム部分をバッサリと切り捨てたということだ。少なくとも再読時において。

 戦闘システムは悪く言えば使い古されたシステムである。
 フィールド上の敵シンボルに接触すると、画面が切り替わり、エンカウントバトルが発生する。その後パーティーメンバー全員にコマンド入力で指示を出すだけ。
 それでも前作のEP2では戦略的な面もあったのだが、今作ではそれすらカットされ、より単純なものになってしまった。

 各メンバーの戦闘時の<個性>はとても差別化が計られているが、これもどちらかというと、ストーリー在りきでの差別化なのだと思う。各人、イベントやムービーでその能力を使うことがあるが故の。

 つまりは、見せたいのはストーリーであって、戦闘や何かは<オマケ>でしかない。少なくとも<再読>時に切り捨てられる程度のものでしかないのである。

 悪く聞こえるかも知れないが、ゼノはストーリー偏重のコンピューターRPGにおける究極に居るように思う。EP3で『強くてニューゲーム』ではなく『ムービー閲覧』を選んだことは、一種の開き直りに見えるのだ。


○両者の立ち位置
 ここまで読んで頂ければ、最初に「対極にある」と私が思った理由は把握してもらえたかと思う。
 FF12は”戦闘システム”に多くの比重が割かれ、ゼノは”ストーリー”に比重が割かれている。

 RPGにおける主要な3要素である<戦闘><成長><ストーリー>の内の2つをそれぞれ極大化させたものがFF12とゼノだったのではないかと。(<成長>については別コンテンツで書こうと思っている。FF12もゼノもその部分に関しては優秀だと思わない)

 では、それぞれのいいトコを取ったゲームを作れれば…
 そう思わないでもないが、それがハード・ソフトの両面で可能だったとしても、プレイヤーの許容量―プレイのために覚えなきゃ行けない操作やシステム、ストーリーの伏線、画面を通して入ってくる視覚情報(マップがどうなってるとか宝箱がどこにあるとか)、もっと単純にプレイするための時間―を越えてしまうような気がする。

 以前書いたが、<ゲームがゲームであるために>どこかで線を引く、何かを削る(犠牲にする)のは必要なことだと思う。

 ゲームは<娯楽>を超えてしまったら、<ゲーム>と呼べなくなると思うのだ。
 そういう意味で、<戦闘><成長><ストーリー>を満遍なく、(プレイヤーの許容量を越えない)レベルで纏めたっていいと思うし、FF12やゼノのように、どれかに一極化してしまうのも構わないと思う。


○<ゲーム>である意義
 だが、ここで1つの意見が、ままあがる。
「ゼノは(もしくはもっと広く、ストーリー偏重のゲームは)ゲームである必要があるのか」と。

 確かに<戦闘><成長><ストーリー>の内、<ストーリー>だけは他の媒体でも表現できる。
 受け手の実感においては<戦闘><成長>はゲームプレイヤーの方が読者や視聴者よりも優れているが、逆に<ストーリー>ならプレイヤーよりも読者や視聴者の方が、再プレイよりも再読や再視聴の方が優れているだろう。
 では、なぜゼノは<再プレイ>より<再読>を優先させたゼノは、ゲームである必要があったのだろうか。

 残念ながら、今の私はそれに対する答えを持っていない。
 ゲームで無いと駄目だとは思う。ゲームで良かったとも思う。ゲーム以外の媒体なら手にしなかっただろうなとも思う。
 だが、それでも、それを上手く、人に理解してもらえるようには説明出来ない。

 敢えて言うなら<RPGというゲームの表現力>故、だろうか。

 世の中には表現方法として<音><絵><文章>がある。
小説なら<文章>(+挿絵等の少量の<絵>)、漫画なら<文章>+<絵>、映画・アニメなら<絵>+<音>である。
 これらはそれぞれ優っている部分もあれば劣っている部分もある。

 <文章>全てを映像や台詞、BGMに完全に還元することはできないし、逆もまた然りである。
 動画+台詞・音楽に対して、静止画+文章の漫画は動きに劣るが、<文章>や<間>を使えるという点では優っている。

 コンピューターゲーム―特にテキストを使えるRPG―はこれらの良い点を全て使えるのではないだろうか?
 台詞を喋りながら、テキストを表示しながら、音楽を鳴らしながら、キャラクターは動きも見せる。

 <操作する>というプレイヤーの実感を置いておいても(この<操作>という能動的行為を厭う場合だってある。ただ目を閉じて音楽を聞いていたいことだってあるだろうし、何らかの手作業をしながら、アニメや映画を見たい場合だってある)<ゲーム>は優秀な表現手段だと思うのだ。
 <操作>という実感を加えればそれはさらに顕著となる。

 アニメや映画では自動的に流れていく台詞に、気になる部分があっても止まってはくれない。だがゲームなら、心ゆくまでその台詞を反芻してから、ボタンを押し、続きを喋らせられる。小説や漫画とは違い<音>もあれば<動画>でもある。同時に小説や漫画のように、自分のペースで読むことが出来、また文章量・映像量においても匹敵する。

 つまり<ゲーム>という媒体は優秀な表現方法だと思うのだ。
 また、本来は表に出てきにくい設定をも比較的表現できる。例えば、宇宙戦艦ヤマトの内部がどういう構造になっているかは、漫画やアニメで描ききれない。本筋に関係なく、助長だったりするからだ。
 それは、設定資料などが本編とは関係ない状態で公開されるまでわからない。

 だが、ゲームは違う。

 本筋に関係なくても、ヤマト内のマップを作って、そこをプレイヤーの操作キャラクターが移動・行動できるようにすれば、内部構造を表現できるのだ。

 これは表現として大きい。大きいだの何千メートルあるだの言われても実感は無いが、自分の操作するキャラとのサイズ比較、移動・行動することによって、その場所の広さ(狭さ)等が実感できるのだ。
 誰々の部屋がどこにあって、その向かいに何々があって、といったことをゲーム内マップに配置することで、受け手に感じさせることが出来る。本筋の<ストーリー>には関係ないところで。

 その優秀な表現手段である<ゲーム>に置いてこそ、ゼノはゼノ足りえたのだと、私はそう思う。