私が求める命題については前記事に挙げた通りで、基本的にあれが自分の中での最重要課題である。
 以上を踏まえてこの記事ではそれを実際の作品の中で見ていく。

 必然的にネタバレも含まれると思うので注意。



フランケンシュタイン/メアリー・シェリ
 これが私の原点である。フランケンシュタインは知っていても作品自体をしっかり読んだ人はそんなに多くはないのではないだろうか?

 メアリーが最初に付けた題名は『フランケンシュタイン、すなわち現代のプロメシュース』。
 プロメシュースとはギリシア神話の神プロメテウスで「先見の明持つ者・熟慮する者」の意。人類に火を与えたとも人類を創造したとも言われる。
 そもそもフランケンシュタインは主人公である<怪物(原文はcreature)>を造った方の博士であり、怪物の名前では無い。

 以上のことを知っていれば『現代のプロメテウス』という副題にも納得いくのではないだろうか。

 「これが最初のSFだ」とする人も居り、最初かどうかは兎も角、<人間を造る事><造られたモノの苦痛・葛藤><それらに対するヒト>などの問題がすでに提示されており、後に<フランケンシュタイン・コンプレックス>という単語すら出来ている。

フランケンシュタイン・コンプレックス(Frankenstein Complex)とは、 創造主(キリスト教の“神”)に成り代わって人造人間やロボットといった被造物(=生命)を創造することへのあこがれと、さらにはその被造物によって創造主である人間が滅ぼされるのではないかという恐れが入り混じった複雑な感情・心理のこと。

メアリー・シェリーの小説「フランケンシュタイン」に由来する言葉で、SF作家アイザック・アシモフが名付けた。このロボットに対する人間の潜在的な恐怖が、「ロボット工学三原則」を生み出したという事になっている。


 初めて読んだのは小学生の時で、それ以来ずっとこのテーマに興味を持ち続けている、ある意味元凶とも呼べる私にとっては罪深い作品である。


○吸血鬼モノ
 フランケンシュタイン繋がりでコチラにも手を伸ばしだした。

 メアリーの『フランケンシュタイン』と同時期に書かれたジョージ・バイロン(本当はジョン・ポリドリ)の『吸血鬼』、ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』、レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』といった古典群から、『インタヴューウィズヴァンパイア』という映画にもなったアン・ライスの吸血鬼シリーズ、さらに最近のアニメでの『BLOOD+』など。


 共通し、求めるテーマは人造人間モノと同じで、<ヒトとヒト以外の生物の共存共栄をどう描いているか>に尽きる。
 これはアイザック・アシモフなどのロボットを扱った作品群や果ては日本の『雪女』『天女モノ』『鶴の恩返し』等に代表されるような異種婚姻譚にまで広がっていく。

 日本における異種婚姻譚は実際は私の求めるテーマとは違い<ムラという閉鎖された共同体に入る、その共同体外からの血の混入>などといった民俗学への問題になっていくが、私が読み取ろうとしたのはそのことではない。お間違え無きよう。
民俗学等の見解としては、京極夏彦陰摩羅鬼の瑕』がわかりやすい。


○作家・京極夏彦
 流れで言及しておくと、この記事と前記事の考え方は、京極夏彦京極堂シリーズを読んでいると非常に理解しやすいかと思う。
 特に私の求めているテーマ的には『魍魎の匣』がわかり易く、更に新たな疑問点を持ち出してくれている。

 前記事でも触れたように、ヒトは自分の脳内でしか世界を認識できない。
 だがそれでも脳は部分であり、それが人間全てではない。だから私個人としては、前記事であげたような脳を機械にした場合、それでもヒトであると思っている。


 京極夏彦は本文でこう言う。

いいか、意識は脳だけで造り出されるものじゃない。人間は人間全部で人間なんだ。脳髄はただの器官だ。部分的に欠損した場合は幾らだって補えるが、脳だけ取ったって何も残らない。身体と魂は不可分なんだ。

さらに

―脳は鏡だ。機械に繋がれた脳が産み出すのは、脳の持ち主の意識ではなく、繋いだ機械の意識だ。さあ、これはやってみなくちゃわからない。やってみて若しそうだったら、あんたは―どうする?

 ミステリ作品であるこの『魍魎の匣』においてすらこれだ。テーマ的に直接関係のあるジャンルではないが、私への影響の大きさという点で、この作家を外すことは出来ない。


○ロボットもの
 私の掲げるテーマ的に、一番アニメや漫画で扱われてるものだと思う。
 細かくは後述するが、古典で外せないのはやはりアイザック・アシモフ。そして手塚治虫だ。

 誤解を恐れずに言うと、アシモフの『ロボット三原則』は敷衍されたり、「あえて外したらどうなるか」を考えたり、という<最初に制限を掛ける事でそこからの脱出を軸にテーマを考える>、ある意味ずるいやり方だ。
 「まずはロボットに(異人に)人格を認めませんでした」というスタートなのだから。

 私が求める<スタートをどうしよう>とはテーマ的に違う。だが、そこで足踏みしている私よりは遥かに賢いやり方である。

 手塚治虫アシモフ寄りのロボット感であり、さらに生命の神秘を認めているため、私とは立場が違うが、それでも得るものは多い。(『火の鳥・未来編』での最後のロビタの話など。)
 鉄腕アトムや果てはどろろに至っても、ヒトと人外との境界を意識していた人だと思う。

 最近は、気分だけで「みんな生きてるから一緒!」という、なんだかなぁなアバウトな物が多くて困る。


BLOOD+(アニメ)
 上にも少し名前が出たが吸血鬼物である。
 ストーリーはともかく、<共存共栄>においての答えを<家族>という<隣人愛>に求めた作品だと思う。
 これは以下に挙げる『SoltyRei』と同じ手法でもある。

 隣人愛と言えば、博愛や何かと絡めて、宮崎駿自然主義富野由悠季ニュータイプについて思うところもあるが、関係無い上にそこらじゅうで言及されているのでここでは取り上げない。
 他にも<心>という概念を<意識>に絡めて話すべきかも知れないが同上。
 掲げ、問題にしてる一つのテーマを求めるために、これだけの他のテーマも本来突き詰めて行かなければならないと感じてもらえれば充分だと思う。純粋な学問としての量子力学や脳生理学においても以下略である。


 閑話休題


 『BLOOD+』だが、<人(の血)を糧とすること><生物として増殖(子孫を増やす)すること>と言った<共栄>に置いて逃げた感がある。
 また、隣人愛においても<寿命の違いにおける離別>を描いていない。


SoltyRei(アニメ)
 アンドロイド物として、私の中での最高傑作。
 一般にあまり評価されているイメージが無いのが不思議だが、<ヒトとアンドロイドとの家族愛><ヒトとアンドロイドの友情・恋愛><機械による支配乃至庇護><(その人を超える能力において)ヒトから恐れられるアンドロイド>といったアンドロイド物のSFにおける基本を全てきっちりやったのは素晴らしいの一言に尽きる。

 ただ『BLOOD+』もだが<愛する者との死別>は描いているのだが、<寿命の違いにおける離別>はやはり描いていない。
 そして<種の存続>という物にもやはり触れない。

 こういうものがテーマに上ってくるのも時間の問題と思うが、その際問題になるのはやはり、私が求めるテーマへの回答と同じものだと思う。
 このスタートラインに立てないと、現在のSFの不遇や、哲学の行き詰まりが前に進まないのではないかと愚考したりもする。


ちょびっツ(アニメ)
 という前フリを元にこの作品に移る。
 残念ながら原作を読んでいないのでアニメでのED限定だが、<種の存続>に触れそうで触れない、これは一体何なのだろうか。
 「パソコン(機械)でも構わない。愛する」のはわかったが、なぜソコまで行って<妊娠・出産>にしっかり触れないのか。

 現実にヒトでも不妊に苦しむ人は大勢居る。
 それを理由に夫婦生活が破綻する人も居れば、幸せな夫婦を続けられる人も居る。
 現代において、それが皆無だなんてとてもじゃないが言えないが、「子供が産めないのは駄目だ」などという風潮は無くなってきている。
 ましてや「産めないからヒトじゃない」などと言う風潮はほぼ皆無だ。

 だが、それでもツガイの片方がヒトであるなら、種族維持本能を持ち出すまでもなく、多数が「自分の血をわけた子供」を望むのではないか。
 だからこそ、現代でも風潮云々ではなく、不妊の原因がある方は悩むのではないのか。

 「ヒトという種が例え滅びようとも、この愛は捨てられない」と言った陳腐なおためごかしな言葉でも構わない。何故それを作品中に出せないのか。

 『ちょびっツ』は<一般大衆・世間の中での異種婚姻譚>を見せ、『セカイ系』の<先>を行きそうになったにも係わらず、足踏みしてしまった作品に思える。

 そして<寿命における死別>はやはり描かれていない。


セカイ系
 そしてこれである。ちなみに筆者は大嫌いだったりする。

 メジャーな漫画としては『最終兵器彼女』だろう。
 これは乱暴に言うと、最終的に「ヒトという種は滅んだけれど、愛する貴方と私はココに」に集約される物語だ。
 ちょびっツの項で書いた「ヒトという種が例え滅びようとも、この愛は捨てられない」に見えるが、これじゃあ駄目だと思う。
 「<共存共栄>はどこいった」と思うのだ。

 <種>どころか<国>や<街>といった<共同体>すら捨て、<集団>を構成する最小単位の<二人>にまで限定してしまうのはあまりに後ろ向きだ。
 今更エヴァンゲリオンショックについては言及しないが、<一人>が<二人>になっただけである。
 <嫌われても蔑まれても社会に出て行け>というメッセージを含んでいたエヴァより退行しているとも言える。

 まぁエヴァからセカイ系、そして現在への変遷は、素晴らしい文章がネットにすらゴロゴロしてるので、ここでは言及しないが、筆者的には「テーマから遠ざかってどうする!」って感じである。


○ARMS(漫画)
 宇宙から飛来した金属生命体が出てくる。
 つまり有機生命体のヒトとは違う、無機生命体である。

 何が言いたいかっていうと、「有機物で出来たものだけが生命体じゃない」と思ってる人が私以外にも居るってこと。


デビルマン(漫画)
 アプローチは違えど、<ヒトとは何か>について多くの示唆を投げかけてくれる作品である。

 これ以外にもこういうアプローチでならば、<戦争時におけるヒトの残虐性>だの<魔女裁判>だの各種心理学だの、脳内物質の分泌による思考・肉体の変化だの、様々なものを私の小さな脳に入力したくなる。有体に言えば興味がある。
 多岐に渡りすぎていて、付いていけなかったり死ぬまでに入力しきれるかな?とも思うが。

 所謂<賢者の石>や<不老不死>を求める人間の気持ちがわかる瞬間でもある。


銃夢(漫画)・ガンスリ(アニメ)
 最後に完結していない作品だが、この二つを挙げておく。
 『銃夢』に至っては、私の求めるものにどストライクである。

 二つとも何らかの<答え>を提示して終了してくれることを願って止まない。




 以上、ざっと駆け足で並べてみた。脳内の思考を全て理論立てて文章に直す事など不可能なので、かなり端的な書き方しかしていないところもあるが、大まかに私の求めてるところを掴んでもらえたらなぁと思う。