そして何故かニュータイプ論

富野由悠季という人は凄い人なんですが、ガンダムの初期で<ニュータイプ=人と共感できる能力を持った人間=争わなくて済む人間=人の革新>というのを大多数の人に植え付けてしまった人でもあります。

富野さんはコレを消したがってるようなんですが、どうにもこの刷り込みから逃れられない人がまだまだ大勢いるようで。すでにZガンダムの小説版辺りで<他人の心に土足で入ってくる>とハマーンが激昂したりしているのにです。

一番顕著なのは富野さんが監督した漫画作品<クロスボーンガンダム>でのトビアの手紙なんですが、その辺りの詳しい話は、もっと本格的にガンダムを語っているサイト様が数多くネットに存在するのでそちらに。



で、今回これを取り上げたのはトリアージとも絡むよなぁと思ったからで。この<共感する能力が争いを無くす>ってのが全人類に備わってるとして、医療トリアージを行うような状況に陥った場合、人は誰も恨まずに恨まれない状況(=争いに発展しない様な状況)を選択できるでしょうか?

・救助者→重傷者の死にたくない気持ちがわかる/軽傷者の早く治療して欲しい気持ちもわかる
・軽傷者→救助者の葛藤もわかる/重傷者の(ry
・重傷者→救助者の(ry/軽傷者の(ry
・もっと細かく自分の気持ちが自分が楽になりたい助かりたいエゴを優先させてることも伝わるetcetc・・・

こうやって、あらゆる人のあらゆる感情が齟齬無く全ての人に伝わってしまった場合、ヒトは何も決断できず、何もすることが出来なくなってしまうのではないでしょうか。


個人的には、この状態がVガンダムでカガチがマリアを使ってやろうとした<人類を赤子のようにする>というコトなのかなとも思いますが、それはまた別の話。



トリアージではなくもっと直接的に争いになる状況のたとえ話でも同様です。

・A君の母はとある病気で死に掛けていました。B君の母も同じ病気で死に掛けていました。
・ですがそれを治す薬は母達が死ぬまでに取りにいける範囲内に1つしかありません。
・A君とB君は二人とも善意の塊のような人間です。
・二人同時にその薬を見つけ、それを挟んで対峙しています。
・二人はニュータイプです。お互いの感情は齟齬無く伝わっています。

さて、ニュータイプである二人はこの状況を打破できるでしょうか。



哲学の話になってしまうのですが、資源(なり国土なり命なり)が有限である以上、博愛は頭打ちな訳で、全人類がニュータイプになって博愛精神溢れる人になっても(というかならざるを得ないというか。快楽殺人の人が居たらその感覚も「わかって」しまう訳ですよ。同時に犠牲者の気持ちもわかってしまいます。)、結局どこかで誰かが何かを決断しない限り、何も出来ない状態に陥るだけかと思われます。


上記のようなことから<ニュータイプ>は<人類の革新>足り得ないと思うのです。


もちろん富野さんはとっくに気づいてます。
それに博愛精神も有って悪いものでは無いですし、他人の気持ちを考えるのは当然のことです。ただ、博愛と言っても有限の中からの配分はやらなければならないし、自分以外の他人の気持ち全て(+自分の気持ち)を満足させるのは不可能です。


そして博愛でも全体主義でも無いなら、隣人愛を選び、結果争いは無くならないのでしょう。

もちろん思考停止せずに争いを避ける手段は模索し続け、回避することに最大限の努力をすべきですが、同様に<ニュータイプになれば争いは無くなる>と思考停止するのもいけないことだと思うのです。



似たような感じで、映画版ナウシカの否定(漫画版は大丈夫)や、もののけ姫での<何も出来ないアシタカ>の話とかもできちゃいますが、繰り返しになりますし却下。


何よりこの手の話はあまり真剣に語りたくないんです。サイトの方向性としてはもっとお馬鹿な話を垂れ流したいのです。

ということで明日からは更新があれば『ワンダと巨像』の話を。
ICO』に付いてはhttp://d.hatena.ne.jp/nemuke/20080103で書きましたが、『ワンダ』でも書くかは未定です。