とある科学の超電磁砲をもうちょっと考えてみた

動物化するポストモダン 著:東浩紀』が2001年の刊行。
が、動物化は未だに加速し続けている。


CLANNADに見られるような雰囲気だけで視聴者を泣かせようとしてるモノが持て囃されたり(映画タイタニックもそうだ)、中身は無く何となく楽しそうで何となく上手く行く学園生活を送る(送れる)らきすたけいおん!が持て囃されたり、ガンダムシリーズが美形で凄いキャラがかっこよく戦うだけのロボットものになっていたり。


多くの視聴者は未だ――ではなく、更に、何も考えず、作品内にある気持ち悪さには目もくれず、ドーブツ化して作品を享受している。
そして作り手側はそんなドーブツ達を醒めた目で見ながら、彼らを生かさず殺さず、質の低いエサを高い値段で売り続ける。


ドーブツ達に目を覚まされては困るのだ。搾取できなくなるから。
目を覚ました人が望むようなクォリティは提供できないのだから。


けれどドーブツ達は目を覚ましたがらない。
気付かないほど馬鹿なわけじゃない。単に自分達から目を瞑っている。
自分達の属する心地よいコミュニティを維持するために。
そのコミュニティを守るためなら戦うことも厭わない。



これは『超電磁砲』の主人公達と学園都市と同じだ。
この作品は視聴者に対してものすごい皮肉を言っている。
けれど通じていない。あまつさえ喜んで消費されてさえいる。


作者の意図がどこにあったのかはわからない。
悪意を持って「気付かないのか馬鹿ども」と嗤っているのか、善意を持って気付いてほしかったのか、問題作になるだろうと思っていたのに全く問題視されずに肩透かしを喰ったのか、そんなことは作者自身全く考えていないのか、全く違う意図を持っているのか。



製作者の本意はわからないが、ばら撒きと表面にある美辞麗句だけで政権を取った民主党を叩き、自分達の都合や利益だけでジャーナリズム精神の欠片も無いマスメディアを信用しない、そういった多くのネット住人達が、なぜ視聴者を食い物にしているだけのアニメ作品には目を瞑るのか。
ボクにはそこもわからない。


そのコミュニティはそんなにも心地いいのだろうか。
内部ではその集団を疑っただけで排斥される危険性を孕み、外部からの異人には閉鎖的な、村八分的で魔女裁判すら厭わないようなコミュニティが。
そんな自覚はないのかも知れないが。