またまた、とある科学の超電磁砲

もうここまで来るとボクはこの作品が好きなんじゃないかと思っちゃいますが(笑)。


『逆襲のシャア』でのアムロの死 囚人022の避難所様を読んでいて、浮かんだのは何故か『超電磁砲』とそれを受け入れる視聴者の感性だったので。


「われわれ」と「ぼく」の齟齬と乖離、そしてそれを埋める為の夢や希望としてのニュータイプ
恐らく世代的なことも含めて物凄く同意できる文章なんですが、同エントリ内で以下のように言って居られて。

 何が言いたいかと言えば、そうした“われわれ”と“ぼく”とを無理やりにも繋ぐ観念は、今日ではどうやら、(もはやそれとも思い出されないほどに)まったく必要とはされていないんじゃないか、ということです。

 つまりは、もはや“われわれ”的な共同体のイメージを、今日を生きる“ぼく”たちは、一切必要としないということなのかどうかなのだと思うんですけど。(あるいは、こうした“われわれ”的な共同体のイメージというと、宮崎アニメのことなどが、すぐに頭に浮かんで来たりもするんですけど。これ以上分からないんだなぁ・・・。)


ボクの場合はここで宮崎アニメが浮かばずに『超電磁砲』が浮かんだのでした。



乱暴に結論を急げば、<孤立する「ぼく」を消して、承認欲求を満たしてくれる「われわれ」に溶け込みたい>というのが現代の感性なのではないか、そう思ったんです。


「行き過ぎた個人主義も、決断主義ロマン主義という自己の責任が巨大で多大な労力を必要とする論理はもうたくさんで、もっと緩やかで安寧な、多少の搾取があろうとも安全に管理されたコミュニティに浸っていられればそれで満足だ。」
そう思ってるんじゃないかと。
たとえば『ゼロ年代の想像力』で言及された「世の中が間違ってるから引きこもる」「安全に痛い自己反省」、それらすらしようとしていない気がしてならないんですよね。


ゼロ年代の想像力』を否定する人も肯定する人も、基本的に『ゼロ年代〜』にレスポンスを返してる訳じゃないですか。
諸手を挙げるにしろ、首をかしげるにしろ、図星を指されて顔を真っ赤にするにしろ、目を背けるにしろ、耳を塞ぐにしろ。


でも『超電磁砲』を違和感無く受け入れられる感性っていうのは、別に見ないフリしたりすらせずに、単に見ない聞かないんじゃないかなぁと思えます。
目の前に置かれても「ふーん。で?」って言っちゃうような。



彼らにはきっと個人攻撃は効かないんですよ。
彼らのアイデンティティはその属するコミュニティによって保障されてますから。
例えばmixiで犯罪告白をしてそれが2chで話題になり叩かれたとしても、彼らには2chからの攻撃は効いてないんですね。
mixi上のフレンドから見捨てられない限りは。
(まぁこの場合、ネットから隔離されて拘留されたりすれば効くんでしょうけど)


逆に、そのコミュニティ自体の危険へは過剰に反応する。
その危険が内からであろうと外からであろうと。
そのコミュニティ自体が客観的に見ればやっぱりおかしいものであろうとも、自分が属している以上守ろうとするんですね。
それはそのコミュニティの中で承認度が高い人ほどそうするでしょう。



で、これはまんま『超電磁砲』なわけで。
園都市からの承認度が高い≒超能力レベルの高い、美琴や黒子は、
承認度が低く且つコミュニティの在り様を否定するスキルアウトを排除するわけです。


考えれば考えるほど笑えない作品だと思うんですが、作者としては本当のところ、どっちなんでしょうかね。
この歪さを露呈させたいのか、それともこの傾向を後押ししたいのか。


まぁ気付いてさえもらえてない可能性もあるんですけどね(汗)。


しかも、こういう攻撃的なこと書いてもきっと『超電磁砲』ファンには届かないんですよね。
このサイトの知名度的な意味でも、聞く耳持って貰えない的な意味でも。